三浦綾子塩狩峠」を読み始めた。徒然舎で購入して以来、積まれていた本だった。最近購入した新刊たちを賃貸に置いてきてしまっていたので、仕方なく手に取った一冊だったが、読み始めから大層面白く、一気にのめりこんでしまった。キリスト教と自己犠牲の物語である。伝統的な価値観を大切にする祖母の下で育った少年が、キリスト教である母や妹たちとの価値観の違いに疎外感を感じつつも、徐々に自分なりの善悪の判断をつけていく。この本の前に読んだミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」と近しい部分も感じる。

帰りの電車で集中して本を読んでいると、あることに気が付いた。私の右にいる人も携帯を手に取り、左にいる人も手に取り、それらが私が手に持っている本を中央として、左右対称の風景となっていた。近頃の人は本当に携帯を眺めているものだと一人ごちつつ、再度本の中の世界に没頭した。 さらに幾つかの駅を通り過ぎ、私の降りる駅の直前となった。本を鞄にしまい、さて降りるかと立ち上がりながら周囲を見渡すと、ゲッと思える光景が広がっていた。私の目の前の席の人たちも、私の座っていた席の左右の人たちも、みんな皆同じ表情で携帯を眺めている。口を一文字に閉じ、目元の座った眼差しで、手に持ったスクリーンを睨み続ける。そんな大人が8、9人。ひっくり返した道端の煉瓦の裏に夥しく密集するダンゴムシの群れのような光景に気味が悪くなり、ささっと席を立つ。空いた席に座ったサラリーマン風の男性も、座ってすぐさま携帯をいじり始めた。 意志もなく、皆一様の、安っぽい欲求に浸り続けるようなことをしたくない。そんなことを感じた帰り道だった。